死ぬか天才か

ハグ林のだだ漏れ思考整理簿(予定)

たいふう

 

築40年の家が軋み揺れる。

20時ごろ、非常に強い大型の台風24号が和歌山に上陸したそうだ。バイパスに並ぶ夕焼け色の街灯の明かりに照らされて、斜め45度から降り付ける雨がここからは見える。みんなが亀のように家に閉じこもって嵐が過ぎるのを待っている。ぼくはこんな恐がりな人類が可笑しかったり、分かりやすく隔絶されたこの部屋の暗闇が優しかったり、ひょっとしたら終わってしまう命が素晴らしくて、じっと夕焼け色の街灯を見ている。

(おれってば、戦争を知らない子供たちだな)

世の中に起こる騒ぎを祭りの一種として感じている今の自分は、なんて思慮の浅く想像力の欠如した人間なのだろうと思い、ヤダヤダと頭を振る。自分のような奴は一度痛い目を見るべきなのだと、自分と『正しさ』のズレを客観的に認識しておく。「わかってるよ」と言いながら開き直るのもまったく慣れた作業で、なにか罪深さのようなこの気分でさえヒロイックに楽しんでしまえる愚かな大人になってしまった。いや、やはり胸の片隅にある「全部流れちまえばいい」というあほ丸出しの思考は、この頭打ちの人生に対する諦めと灰皿のような社会に対する絶望によって確かに存在している。

(この街を洗い流す雨はいつ降る?)

ラヴィスのような怒りもなく、ただ漠然とそう思う。間違っているのは自分だと認識しているため、ぼくはトラヴィスにはなれない。なれなかった。学生時代に友達に借りたバリカンで頭をモヒカンにして軍落ちのM65を着て大学に行ったことがあった。44マグナムでポン引きを殺しに行くわけでも、好きな女の子を弄んだエリート営業マンと喧嘩をしに行くわけでもなく、ただモヒカンにしただけだった。あれはもしかしたらトラヴィスから最も遠ざかる行いだったのかもしれない。ぼくは狂気から最も遠い男になのだ。酒に酔ってなんとか鈍らせても魂の成り立ちが凡人のそれなのでお利口だ。背骨の無い男になってしまった。ぼくはトラヴィスにはなれなかった。

軋み揺れる部屋の中で、この街を洗い流さんとする光景を見ている。もしもこの部屋に彼女が居たなら一緒に窓の外を眺めてくれるだろうか。そして何かうっとりとした時間が流れるだろうか。ノルウェーの森の主人公が女と一緒に火事を見たように。あの小説はいけすかない男がくだらない女とセックスする低俗な話で、ぼくのような気持ち悪い男にとってまったく気に食わない物語だったけど、あのシーンは少し美しかった気がする。

でもやっぱりこんな気持ちは共有するものではないのではないか。ましてや彼女と共有できちゃ意味合いが変わってしまう気がする。人はひとりじゃ生きられないという現実と、誰と何人連れ添おうが人はひとりだという真実のように、一緒くたにしてはいけない領域のような気がする。この景色はひとりだけのものだ。ひとり部屋に立つぼくがふたりだけの景色を見ることが出来ないように、せめてこの景色はひとりだけのものだ。悲しいくらいに。

なんだかファイトクラブのラストシーンが観たくなった。街が崩れ落ちる、崩壊のシーン。where is my mind?が流れる最高潮のシーン。きっと世界の終わりにはそこら中でPIXIESが流れるのだと思わせる、美しいシーン。シン・ゴジラが東京の街や国会議事堂を熱線で焼き尽くすシーンだって美しかったな。脳が逆毛だって口がぽかんと空いて目玉が濡れた。

この街が終わる時は、破壊に飲み込まれてなす術なく、すり潰される時は、PIXIESじゃなくてぼくの曲が流れてはくれないか。今は無いけれど、その時までにはきっとそんな曲を用意するから。ぼくは、いつかそんな曲が作りたいとよく思うから、この街の人たちは堪忍して欲しい。防災無線で、遅延なしで流して欲しい。本当はもっと良い音で聞いて欲しいけれど、緊急時なので仕方あるまい。ほんと、嫌だとみんなが言うのなら、ぼくひとりだけ勝手にそうしよう。

 

台風は信号機をすこし歪めたりして過ぎ去った。何人怪我したのか知らないが、とてもこの街を洗い流すには力及ばなかった。仕事は休みにならず、逆に余計な仕事をするはめになった。

うろこ雲がずらっと並ぶ秋らしい空に、ツクツクボウシの生き残りが鳴いて飛び上がった。

(つがい見つかるんかな)

せっかく生まれてきたんだから、見つかればいいのになと思った。

 

もう夏もいよいよ終わりだ。