死ぬか天才か

ハグ林のだだ漏れ思考整理簿(予定)

バカと海


シーラカンスを釣りたいと、うみは言った。病室の窓から見える太平洋に、大きな魚が羽虫を喰らいに跳ねたのを見てから頻りに言う。魚には鱗がなく、鳶色に銀色を塗した斑目の身体と、なにより眼が乳白色に美しいのだと彼女は僕に何度も説明した。ぼくはそいつの正体がシーラカンスという、非常に珍しい魚なのだと言ってやった。無学なぼくには、そんな居るか居ないかもよく分からない魚は、シーラカンスくらいしか心当たりがないのだ。
ああー、しーらかんすと呟きながら、うみはそのまま2時間かけて、シーラカンスが世界を終わらせる短編小説を書きあげてぼくに見せてくれた。表情筋が溶けた諦めたような笑顔をぼくにくれ、ぼくはこの娘が白痴なのだと再確認した。今ここに充満する腹が冷えるほどのどうしようもなさに、ぼくはこの先の人生全てを持っていかれた気がした。
白砂の海岸線の終わりの丘に、このサナトリウムは建っている。彼女は友人の妹であり、ぼんやりとしているうちにぼくの個人的な友人になった女である。大正時代に建てられたこの洋館風の病棟に、もう六年も住み着いて、今年で二十五になる。それなのに、その肉付きの悪い貧相な身体と、白痴特有の深淵を浮かべた瞳が、うみを大人にさせなかった。青白い横顔を見る度に、ぼくは不憫に思う。浮世を離れたこの古びた病室の中では、確かに時は過ぎて行くということさえ怪しく思え、ぼくは毎度ひどく不安になる。同じ程、時が固定された安寧に思考が閉じる安らぎのようなものも確かにあって、なるほど確かに精神異常者にとってはそれなりに優しい場所なのだと共感もした。
「どうも、失礼しますよ」
声の方を見ると、口ヒゲを生やした中年の男が戸を引いて病室に入ってくるところであった。くせの強い髪の毛先がうちそとへ出鱈目に跳ね、それを無理矢理にポマードかそれとも皮脂でもって後頭部へ流し寝かしつける髪型は野暮った男の顔によく合った。くたびれた白衣を羽織り、両手をそのポッケに突っ込み直し、ベッドで身体半分を起こして手遊びをするうみに、おはようと笑いかけた。
「あなたは、新しい先生でしょうか」
ぼくはそう訪ねながら、そう言えば確かにそうであったと思い返していた。2週前に病院へ訪れた時に、廊下で見た顔であった。その折は、まだ白衣は真新しい白でいて、糊の跡さえあったのだ。
「芹沢と言います。山川さんのお兄さんでしょうか」
「うみの兄の友人の森田です」
ほほうそれは、うむむなるほどと言いながらバインダーにとめた紙にペンを走らせた後、芹沢は、宜しくどうぞと目を細くして笑い、握手を求めた。医者らしからね太短い指に毛がびっしりと生えている。しかし、その手でもって握られると不思議と按摩されたような気味の良さがあった。ぼくは医者の手とは確かにそうだと思った。
「先生から診て、彼女はどのような塩梅でしょうか。白痴とは完治するものですか」
「森田さん、山川さんは白痴とは違います。山川さんは精神を拗らせている病人なのです。白痴と精神疾患とでは、猫と毛虫ほど違います。」
つまりはまったく別種類の災難ですな、と続けながら、芹沢は病室の窓を開け放った。海風が一陣入り、パーテションカーテンが音もなく靡いた。うみは、誰かに呼ばれたように窓枠いっぱいに広がる太平洋をすっと見つめていた。あんまり一生懸命で、風の中の匂いと音を集めている野良の兎のようだとぼくは思った。確かに、耳さえ器用に動かしたのだ。
「ここには全くの良い風が吹きますね。私達の地元の海では油臭くてこうはいきません」
「上等の風は患者に一番必要なものです。わたしの知る限り素晴らしいと言われるサナトリウムは全てこんな風の吹くところに立っているのです」
ですからね、ブラックジャックの家だって、こんな海を見下ろす断崖の丘にあるのですよと、芹沢は懐かしむような遠い目をしてぼやいた
それから彼は、別の患者の窓も開けるのだと言って病室を去った。医者の仕事というのは、無学な田舎者の僕には想像もつかないが、窓を開け放つ事だって立派にするものだと感心した。
芹沢医師が去った病室は、一瞬に静寂が生まれ、ぼくは思わずうみを見た。うみはもう窓の外を見ることを辞めていて、同じ兎の顔でぼくのほうを見ていた。目が合い、深淵の眼に吸い込まれそうな気がした。うみは、外に行と言い、ぼくは頷いた。
サナトリウムは砂浜から大地に変わる、海を見下ろす小高い断崖の丘に建てられている。大海原の表面をかける風が岸壁に散らされ、それが上手いことなって優しいくらいの風としてこの一帯に吹いているのだった。磯の香りがするが、魚の油というような不快なものではない。生きて死んでいく生命の濃縮還元のかおりが、大気とでも言うべき大量のそれに溶けて混ざり、どこか青臭いくせ妙に爽やかで懐かしい匂いでいた。
海岸線には足跡が二種並んだ。並んだと言っても、片方は進行も歩幅も落ち着きがなく、まるっきり毒を喰らった鳥のような軌跡を描いて、蟹だって踏み殺した。うみは、自身が少女だった時分に買った装飾のない白のワンピースに、彼女の兄が最後に買い与えた黒い8ホールのドクターマーチンという出で立ちでいた。それは何かがおかしい組み合わせのように頭では思ったけれど、海岸線を歩く精神異常者には哀しいくらいに似合っているのだった。うみはぼくの方に振り返って、白い顔を見せて言った。
「わたし、うたを歌うから。聴いていてね」
ぼくは歩きながらうたを歌ううみの背中を見ている。久し振りに聴いたその歌は、童謡の様であり、遠い異国の賛美歌の様でもあった。とっちらかった旋律にのせられた詩の中身は、やはり世界を終わらせるもののようだ。彼女の歌によって海溝深く眠る怪獣の眠りは覚め、天使と悪魔も戦争をして、人間も狂って笑い泣きしながら明日の明け方には皆がおっ死ぬということらしい。
歌は波のまにまに揺れて終わり、うみは歩みを止めて大海を臨んだ。水平線の向こう側に陽が落ちる。見慣れた現象が、彼女が居るだけで胸が潰れるほどに痛々しく見えた。ぼくはこの女はここで殺してやるのが誰にとっても一番幸せなのかもしれないとさえ思った。
押しては返す波の音が、絶望絶望と叫んでいる様に聞こえる。水平線に落ちていく夕陽が、神様の入水自殺に見える。しかし、いくら世界が終わりそうであっても、世界は終わらないのだった。うみは寂しそうに眉を傾けたけど、すぐに深淵を浮かべた瞳に戻り、鼻水だけが阿呆の証明のようにかすかに光った。
「ねえ、わたし病気じゃないの
夕陽を見つめながらうみは言った。波の音に負けてしまいそうな虫のほどの声だった。ぼくは負けじと、そうかもねと虫の声で答えた。お互いに聞こえなくたっていい言葉なのだ。曖昧であることが、彼女にもぼくにも優しいのだと思う。
「あの白衣の人ね、患者さんなの。自分を医者だと思い込んでる気狂いよ。毎日窓を開けにくる、そしてね、開けっぱなしよ。あの人ね、あの人ね、終わって
本当にそうなのかもしれない。本当のことはぼくにも分からないし、本当ということが幸せなのかも分からない。いまこの世界でうみだけが正常だとしたら、そうやって世界がひっくり返ってもいい。このまま世界が終わってしまってもいい。

 

 

未完