死ぬか天才か

ハグ林のだだ漏れ思考整理簿(予定)

ロックンロール・シンデレラ

 

仕事の帰り道、カーステレオからくるりの『ロックンロール・ハネムーン』という曲が流れ始め、ふと思い出した。

 

ぼくは昔、高校生の頃に小説を書いて、一応書き上げた。

そのタイトルが『ロックンロール・シンデレラ』だった。たしかそうだ。

コンビニで立ち読みした『これ描いて死ね』が面白かったのも、何か関係があるのかもしれない。

 

地元(田舎)のスーパーでバイトをしている時、暇すぎてメモ用紙に書きはじめたのが始まりだった。

心得も目的もプロットすらなく、なにか書いてみたいという熱のようなものだけがあった。(ああいう創作はもうできないのだろうかと思うと少し寂しい。ぼくは、そういう創作が1番正しいような気がする)

お話なんて考えてもいないのにいきなり書き出したタイトルがそれだった。

 

溜め込んだメモ用紙や、授業中に黒板を写すふりをして書いたルーズリーフ、不揃いなストーリーを家に持ち帰り、パソコンで清書していった。オチも何も考えていないので無駄に長編だったような気がする。

 

お話はこんな感じだ。

主人公は冴えない男子高校生で、影の薄い学生生活を送っている。彼には日課があり、山奥にある丘で夜な夜なギターを弾いていた。彼は曲を作っていて、これが完成したら世界がひっくり返るのだ。

高2の春、彼のクラスに多田という転校生がやってくる。多田くんはなにか超然としていて、映画や音楽にも詳しく、クラスの馬鹿どもとは違うようだったから主人公は彼をダダと呼び尊敬に近い友情を感じていた。

主人公には好きな人がいて、帰りの電車でよく一緒になる隣町の進学校の女子だったが、話したことも目を合わせたこともなかった。

また主人公がギターを担いで丘に行くと、なんとその女の子が月の照明のしたで踊っていた。主人公は思わず声をかけ、それからたまに彼女は丘に現れるようになった。門限までの数時間だけ会話する彼女を主人公はシンデレラと勝手に呼んでいた。

それから彼はいつか出来上がった曲を演奏するためのバンドメンバーを探し始め、幼馴染の冴えない奴らに楽器を始めさせた。主人公がギターを弾き、ボーカルはダダに託した。スタジオに通い、バンドは徐々に形を成していったが幼馴染のひとりに彼女ができて、浮かれまくったのちに振られバンドは崩壊した。

そしてどういう経緯か忘れたがシンデレラがダダの彼女であり、ダダが彼女を振ったということを知る主人公。自分がピエロのようで怒り心頭の主人公はダダに詰め寄る。ダダは親の都合で転校することがきまっていたらしい。ダダはなにか名言のような説教のようなことを主人公に伝え、彼の前から去った。

青春が終わり、全能感から目覚め、それでも主人公は丘でギターを構えた。ついに完成した曲をひとりの観客もいない丘で演奏した。あたりまえに世界はひっくり返らない。魔法は解けたが、すすまみれの人生は続く。

 

自分で書いていて、恥ずかしい。なんとも頭の悪い高校生が書きそうなお話なんだろう。

書いたというか、書いてしまった。

しかしやはり、創作物として正しい。

まったく優れてはいないが、正しい。

やはり恥ずかしいものほど、本物だ。

いぬ

 

仕事中、ポケットの中でスマホが短くバイブレーションした。

 

父親から、これまた短く犬が死んだ旨が記されていた。

 

実家の犬はぼくが高校生の時に家にやってきたのでもう16歳を超える老犬だった。数年前からは目や足腰が悪くなり、走り回るよりもベッドで布団をかけられて眠っている姿が定着していたように思う。

 

いつかは、そう遠くない未来には。

撫でてやる時にはいつも頭の片隅にそういった思考があった気がする。むしろ努めてそう考えるようにしていた。そうしなければ耐えられないと感じていたからだ。

それにしたって急な訃報じゃないか。

先週会った時には、居間に寝っ転がる僕の横に歩いてきて挨拶だってしてくれた。

 

ぼくは父に家に帰る旨を短く伝えた。

 

車に乗り込み、最寄りのインターチェンジを目指して走り出した。空は秋の夕焼けで寂しげに燃えていた。

早く行ってやりたいのに、亡骸を見るのが怖い。悲しむ両親にどんな顔をして何を言っていいやらわからない。しかし、もうこの帰路で心の整理をつけねばならなかった。

 

ぼくは泣くのが嫌いだった。

ぼくにとって初めての身内の死は、1代目の犬だった。大学生の頃ではあったが、人形のように動かなくなった愛犬を目の前にしたとき涙と鼻水がどばどば溢れて止まらなくなった。それから3日くらい、ふとした時に泣けてしまうという状態になってしまった。

その後、祖父母が亡くなった時も泣くものかと思ったが、結局終始上を向いて鼻を啜ることになった。

今回、ぼくは泣かずにお別れを言おうと思った。今までありがとう、ごめん、また会おう、ゆっくり休んでくださいと言ってやるつもりでいた。

 

家に到着すると、ぼくは努めて平静を装った。

親父に軽口をたたいて居間に入るといつものようにベッドで眠る犬がいた。まるで本当に眠っているようだった。

その横で母が鼻をかんだティッシュを積み上げていた。今朝も散歩をして、夕方までいつも通り過ごしていたのだそうだ。10分程度目を離した後戻ると、既に息を引き取っていたそうだ。誰にとっても急な話だった。

撫でてやるとまだ温かく、トリマーに行ったばかりの毛並みがサラサラと気持ちよかった。ぼくは早々に鼻水と涙を垂らしていた。

意味もわからないうちに産まれ、当たり前に死んでしまう不条理を生きぬいたひとつの命を不憫に思ったり尊敬したりした。

もっと抱きしめてあげればよかった。

寂しがりだったからもっと一緒にいてやればよかった。

そんな後悔をしないようにするために、いつか死んでしまうことを意識しながら接してきたはずなのにまったく意味がなかった。

 

辛くなってタバコを言い訳に立ち上がる。

父も辛いので居間に長い時間居られないと言った。

逆に母は付きっきりで、ずっと鼻をかみながらそばにいる。亡骸に語りかける。男なんてのは、女性の強さや大きさに甘えてばかりいる。愛に関して、男は永遠に素人だ。

 

最後に抱いてやってはどうかと母が言う。ぼくはやんわり断ったつもりだったが、あれよあれよと言う間に抱かされてしまった。

いつものように腕の中に収まった犬を見て、せっかく引いた涙と鼻水がまた流れ出して困った。こんなの傲慢な人間の独りよがり、自己満足だと思いながら犬にありがとうとさようならを言った。

 

明日には犬は敷地に埋めることになった。

火葬にしようかどうしようかと母が悩んでいたが、1代目の犬が土葬だったのでぼくは同じようにして隣に埋めてやってはどうかと言ったのだ。片方だけ火葬だと、1代目が不憫かもしれないとも思った。ぼくは明日も仕事なので、穴を掘るのも埋めるのも父だからひどく無責任な提案だった。

 

もう一生、肉眼で2代目を見る機会はない。今生の別れというやつだ。しかし明日はやってくるから立ち止まってもいられない。

ハグジンについて

 

※ブログではなく、漫画ジン『ハグジン』の説明です。

 

 

わたくしの漫画ジン『ハグジン』が完成しました。

 

①概要

こちらは2021.1.21に難波メレチャンネルにて行われた配信ライブの投げ銭特典として企画されたぼくが書いた全28ページの漫画です。配信ライブのために描かれたものではなく、個人的に描いていたものがちょうど形になったので、思いつきでぼくの方から提案させていただきました。

内容としましては、ぼくの2ndアルバム『FUCK&FOLK』を作るときの半自伝漫画で、かなり個人的なものです。

 

②入手方法

第一に、難波メレのBASEにて投げ銭特典を購入していただいた方々に送付させていただきます。発送後、難波メレの店頭カウンターにも置かせていただける予定となっています。

是非ライブ会場に足を運んで手に取っていただければと思います。また、難しい方は難波メレのBASEの投げ銭特典から購入すれば郵送にて入手していただけます。

また、他のお店にも取扱をお願いする予定です。(④に記述)

▼難波メレBASE

https://nambamele.thebase.in

※店頭販売価格は300円となっております。

 

③わがまま

この漫画の売り上げについては、全て購入されたお店に寄付させていただきます。理由は、自分が今現在ライブ活動をしておらず物販を見てもらうタイミングがないことや、単純な善意や、完全な気分です。ぼくはできるだけ多くの誰かに読んでもらえればありがたいし、そのうえで少しでもお店に利があればいいな!という打算的なわがままでもあります。

 

④お願い

不躾なお願いではありますが、難波メレさんの他にこの漫画を置いていただけるお店を探しております。お知り合いの方でも、面識のない方でも、もしご興味のある方がいらっしゃいましたらお声がけいただけますと非常にありがたいです。売らないけど読み物としてお店に一冊置いてみたいとか、サンプルで一部ほしいとかでも大丈夫です。

読みたいけど近くにお店が無さそうという方もお気軽にご相談ください。

 

⑤最後

寄付とか、善意とか、自分で考えておきながら何かむずむずします。柄じゃないことはするもんじゃないなとか思います。ただぼくは、色んな人に読んでもらえればと、本当にそれくらいのことしか考えてません。だからあまり構えずに、しかたねーなと言いながら助けてやってほしいです。

なんかすみません。よろしくお願いします!

 

おわり

心の地下室で核爆弾を作る作業

 

気持ちいいことが恥ずかしいのが思春期

恥ずかしいことが気持ちいいのが青春

 

クリアフォルダにくしゃっとねじ込まれたルーズリーフの切れ端にそんな言葉が書かれていた。いつ頃の自分のメモだろうか。なにか名言のようでいてでさっぱり意味の分からない言葉に、おれはただただ恥ずかしくなった。しかし退屈な大人になってしまうと感情を動かすことにすらなにか新鮮味のようなものすらあって、昔の自分に感謝の気持ちみたいなものも感じた。

思春期の頃ならば、世界の終りのような顔をしながらこうやって意味のない言葉をこの世の真実のようなつもりで書き連ねていた。または暗い部屋でギターを爪弾いたり、真冬の夜にMDプレイヤーを片手に糞田舎をあてもなく歩き回ったり。それがとても大事なことのような気がしていた。これが世界に大穴をあけると感じていた。いつかの素晴らしい自分を手に入れるための儀式だと思っていた。ぼくはこういったイニシエーションを「心の地下室で核爆弾を作る作業」と呼んでいた。この痛ましい行いが凄まじい何かを生み出すと信じていたんだ。

 

「心の地下室」という薄ら寒い言語感覚を共有できた人を、一人知っている。

知っているといっても面識すらない。彼は別の高校に通う友達のクラスメイトだった。彼のユニークな生態はぼくたちの共通の話題になっていた。

体育の時間に奇怪な行動をしただとか、彼一人がなんとかいう試験に落第したとか、家がとんでもなく貧乏で戸籍を売ってしまっただとか、あまり覚えていないがそんな話だった気がする。とりとめて目立つわけでもないが明らかに浮いていて、実害があるわけではないけれど近くにいると変な臭いがしたりして不快、そういう人ってクラスに一人はいるじゃない。ぼくの中で彼はそんなイメージだった。

ある日友達がガラケーを開いて一つのケータイのサイトを見せてくれた。赤と黒で構成された少し見辛いそのサイトは「ハートのアンダーグラウンド」と題されていた。友達が言うにはこの「ハートのアンダーグラウンド」は例の彼のサイトとのことだった。(当日流行ったよね、魔法のiらんどとか)

プロフィールなどの基本的な項目のほか、目を引くものがあった。どうやら彼の執筆した小説が掲載されているページのようだ。タイトルは「キャラメイカー・シィル」。主人公はキャラメイカーという「キャラクターを作り出してそれに命を吹き込む」という職業を目指して学校に通いながら試験を受けている男の子らしい。彼が練習で作ったキャラクターの女の子に命を吹き込むことに成功し、なぜか相思相愛なふたりはすぐにセックスを始めた。おそらくおよそ100文字程度の出来事だった。

なんの性知識も持たない女の子にAV的な手ほどきをしながら何度もセックスをする。純愛もロマンスもエロスもなく、ただただセックスをする。稚拙な言葉で綴られる都合のいい愛と脳が溶けそうなセックスがバキバキに割れたディスプレイを占領していた。「溶けたホワイトチョコレートを注ぎ込んだ」という彼のお気に入りの官能表現が頻出していてアホっぽい。よく読んでみればこの主人公は完全なる彼自身の自己投影であり、性のはけ口たる少女を創造するためだけにキャラメイカーなる職業を夢想するという創作性皆無の妄想、完全なる彼のオカズ小説だった。

きっと誰に見せるつもりもない、ましてやクラスメイトに読まれるなんて心にも思っていない彼だけの楽園に足を踏み入れたぼくは、おかしいようなゾッとするような悲しいようなうらやましいような不思議な気分になった。多分ぼくはそこに自分を見たような気もしたのだ。ぼくの「心の地下室で核爆弾を作る作業」もこの小説となんら変わらない自己満足のオナニーだったからだ。そして同時に、生み出されるべくして産み落とされたこの小説と酷く滑稽な彼の魂を美しいとも感じていた。

ふと思い出して彼の「ハートのアンダーグラウンド」を探してみたがもちろんサービスは終了してしまっていた。もうあの頭の悪いポルノ小説を読むことはできない。でもぼくはずっと覚えている。昔背伸びして見た名作映画の内容なんて全て忘れてしまっているのに、彼のオカズ小説をいつまでも鮮明に覚えてしまっている。

この世に残るのは残る価値のあるものばかりだ。語り継がれ、保存され、時にはアップデートされる。なのにぼくはあの無価値な自家発電小説をもういちど読んでみたい。そうしたらまた、会ったこともない同志の魂に会える気がする。

 

「恥部」とかいう誰かの恥ずかしいものを掲載するZINでも作ろうかな。あなたの恥ずかしい作品、渡せなかった手紙、そんな何よりも尊い一品を求む!真面目なものほど恥ずかしいはずなんだ。

 

youtu.be

 

風呂とロック

 

風呂

仕事帰りに銭湯に寄ろうと思い、お風呂グッズを車に放り込んでいる。でも帰路に着くと早く帰りたくなって(混んでるし…とか言って)スルーしてしまい、結局は何もない休日に行くことになる。

湯気の充満する浴場に躍り出て、種類はなんだっていいので人のいない風呂を目指してざぶんと身体を沈める。小さく「うー」と声を漏らす。たかがデカい風呂がなんと素晴らしいことか。おれたち心もからだも、血流に支配されているんだなあなんて思う。

露天風呂があれば最高だ。湯気バリアに護られながらやはり人の少ない場所へ向かう。からだ半分を出して何か人生を振り返る。水面を湯気が走っていくのをぼんやり見ている。自律神経が蘇っていく。

時間が許すならばサウナに10分入る。身体を動かしていないのに汗をかくなんて、何かずっこい気もしてくる。大きな銭湯ならテレビが設置されていたりするけど、ラジオくらいでいいと思う。水風呂がぬるければ入るし、冷たければシャワーを浴びる。

からだがふわふわしている。少し硬いバスタオルで上から下へ拭いていく。パンツを履いて体重計に乗り、見なかったことにする。

 

ロック

水分の抜けたからだに何かを流し込みたくなり、自販機に向かう。小銭を摘みながら左隅に7UPがあるのを見つける。

7UPを見るといつも出町柳のスタジオ「スー」を思い出す。スタンプカードもあったし安かったしお店の人も丁寧だけどテキトーな感じで好きだった。

学生時代、ぼくはバンドがしたかったけど組むことができなかった。結局ひとりでやり続けて、最後の最後にオールナイトロングスというバンドを組んだ。最後のワガママのつもりで声をかけたら、みんな最後のワガママだと思って頷いてくれたんだと思う。

オールナイトロングスのスタジオは主にスーだった。ロビーでタバコを吸いながらみんなが集まるのを待ったり待たせたりした。

ぼくはボーカルだった。自分のことは棚に上げてみんなに自分でもよく分からない抽象的な注文をいっぱい出して困らせた。せめて一生懸命がなり歌うので1時間も経つと喉がガラガラになり、休憩を取ることになる。Lスタジオを出ると目の前に自販機があった。7UPを買って一口飲むと、炭酸がタバコと埃で傷ついた喉に焼けついて、イタ気持ち良かった。金のない奴にねだられ、一口くれてやる。

バンドは面白い。鬼滅の刃より面白い。読み物じゃないけれど、くだらないことばっかり言ってたけど、ほかの誰も救わないけど、ずっとぼくは覚えてる。

人生であと何回かは「バンドやろうぜ」と言わなければならないと思っている。

恋はいつも幻のように

 

 

いくつになっても金土日が嬉しい。

このまま死ぬまでそうなのだろうか?

しかしそれは平日が億劫であることの証明なのでおれたちの人生はジョン太夫式開運法に支配されている。

幸せとは拾い集め噛み締める、貧乏くさいものだ。

 

平日の朝、いつものように目覚めた。

ケータイのアラームとして設定したNUKEY PIKESに起こされる。

いつもと少し違ったのは、先ほど見ていた夢を覚えていたことだった。夢を記憶するには、まずいちばんに「ああ、夢だった」と考える時間が必要だ。

それは確か見たこともない女の子の夢だった。

いつものとおり、ぼくはその子に恋をして多分彼女もぼくが好きだった。

布団の上で体だけを起こして考える。

「ああ、夢だった」

 

いったい、見たこともないあの子はぼくの記憶のどこに居たのだろうか。見たこともないのに、決して初めてではないのだ。もしや毎度ぼくの夢の世界に姿を変えて忍び込んでいて、その度に恋をしているのではないか。こんな文章、親が読んだら泣いてしまうが、なんだか不思議で、心強い仲間ができた気分になる。

 

あの子が出てくる夢は悪夢にならない。人が死のうが世界が壊れようが、ぼくたちは満足していた。こわいものはなかった。生き生きとして、死ぬなら死ぬで喜ばしかった。

 

覚醒して、夢だと気づき、切なくなり、忘れないように反復する。それでも記憶は手ですくった水のように指の隙間からこぼれ落ちていって、最後には「水があった」くらいのことしか覚えていない。

現にもう顔も声も思い出せない。覚えているのは、ぼくは東京であの子に会って、あの子は今回人妻だったということだけだ。このシチュエーションは初めてなので、ぼくも歳を取ったということだろうか。

 

それでも、忘れた頃にまた会えるという変な確信があるので、浅い眠りを今日も待っている。

 

よしお

 

"いいものは、うるさくない。

うぬぼれない。かっこつけない。

色っぽい。悲しくなってくる。"

たましいの場所/早川義夫

 

早川義夫のアルバム「 かっこいいことはなんてかっこ悪いことなんだろう」 というタイトルを見たとき、何かがスイっと胸に刺さった。ナイフのように抵抗なく肉を割って心を突いて、液体がつつーっと流れ出た。それはどこかでぼくが探していた言葉だったので、一目みただけでわかったのだ。

 

自分の中にある、未だ言語化できずに霧散している想いが適切な鋳型でもってパチンと鋳造された気持ちよさがあった。 人生に馴染むカタルシスがあった。ぼくの中にあったのに、それが何なのか、ぼくにはわからなかったなんて、悔しかった。

 

 しかし、かっこいいことがかっこ悪いとは、いったいどういうことなのか。字面だけ見るとなかなかトンチンカンな言葉だ。矛盾しているじゃないか。

 しかし本当のことは大概が矛盾しているような気がする。全てを内包するために、 その膨大な情報量ゆえに、その中にイデアを宿すために矛盾している。 宇宙の真理を解く数式のように破綻している。 なにを言っているのか自分でもサッパリわからないが、きっとそうなのだ。光がある為に影ができるように、本物は相反するもので構成されている。白と黒じゃなくて、しかし灰色でもなくて、不溶性で粘稠質で総天然色の色々が、溶けず混ざらずウルトラマンのオープニングのように渦を巻いている。

 

 そういえば、甲本ヒロトだってドブネズミのように美しくなりたいと歌った。この曲をカラオケで何気なく歌っている人たちの何人が、何故ドブネズミが美しいのか考えただろうか。ぼくが聴いたブルーハーツと、ぼくを馬鹿にしたあいつの聴くブルーハーツは同じなんだろうか。ぼくには分からない。

 

 かっこいいだとか素敵だとか、一つの軸の話に過ぎない。本当の美しさはまったく別の場所にある気がする。かっこよかろうと醜かったり、かっこいいが為にかっこ悪いこともある。エロくないのがエロかったりする。

二元論では語ることができない。だいたいのものは様々な要素という軸が無数に集まって形成された立体だ。立体は角度によって見え方が全く違う。真正面から見ると矮小な線が他方から見るととんでもなく尖っていたりする。ぼくはここに思いついた相対性立体視論を提唱する。

 

どうだろう。お分かりいただけただろうか。

ぼくは自分で何を言っているのかわからなくなってきたのでこれで終わろうと思う。

さようなら。