スーパー・バッド・サマー
自分は音楽をしている。
趣味だけど、胸を張って「している」と言えることはそれくらいしかない。
聴くのも作るのも、上手ではないんだけど、誰に言われるでもなく続いているので好きだと思う。(何かを好きだと言う自分だって、ぼくは信用できない気がする)
そんなに難しい音楽はしていない。
フォークをしている気も、ロックをしている気もしない。そんな大それたことは出来ていないのでなんとも言えないけれど、世間的には「弾き語り」と分類されているものだけれどそれも違う気がしている。間違い無いんだけどさ。
難しい音楽では無いけれど、理解されやすいものでも無いと思っている。馬鹿にされたり笑われたり軽蔑されてしまうことをしている自覚はある。でも真剣なものは、だいたい恥ずかしいものなので仕方ない。
ぼくは真面目に普遍的なものを作っているつもりでも、不真面目で奇妙なものをばら撒いていると指差されてしまう。
まあ人間なんてお互いそういうもんだとか思っておく。
昔聞いた爆笑問題のJUNKで、太田が相模原の障害者施設で起きた殺人事件について語った話をよく覚えている。
殺人犯植野の主張は「意思疎通のできない人間は生きていても仕方ない」というものだった。それについて太田は「表現力がある人っていうのは、周りにその人を理解しようとしてくれる人がいる人のこと。身体に沢山刺青をいれたりSNSに持論を綴ったりしても、誰も彼のことを理解しようとは思わなかった」
「殺されたのは喋れなかったりうまく反応が出来ない人だったけど、彼らには理解しようとしてくれる人がいた。「あ」とか「う」しか言えなくても、この「あ」はお腹が空いたって事なんじゃないか、と考えてくれる人がいる。死んで欲しくないと思ってくれてる人がいる。殺人犯よりよっぽどコミュニケーションが上手だったんだ。」
「だから一番表現力があるのは「おぎゃー」しか言えない赤ん坊。赤ん坊の「おぎゃー」には全ての意味が詰まってる。おれたちが言葉を並べてなんとか表現しようとしているのは、言葉を持たない赤ん坊の「おぎゃー」なんだ」
よく覚えている…なんて言ったけど、まぁだいたいこんな話だったくらいの認識で捉えてください。とにかくこの一連の発言はぼくにとって鮮烈だったのを覚えている。それについて共感できる自分も嬉しかったし、また、太田が言うから説得力があったんだと思う。
そういった意味で言えば、ぼくには自分で思っていたよりも表現力があったのかもしれない。かなり他人任せな話だけれど、たぶんそれは本当で、ぼくは温かな声をかけてくれる人達に尊敬のような感情を抱いていた。それが何なのか、この話を聞いて分かった気がした。
そして自分は誰かを理解しようとしたことがあっただろうかとも、思い返した。
まとまんないんだけど、書いといたぜ
honey,i sure miss you