死ぬか天才か

ハグ林のだだ漏れ思考整理簿(予定)

俺たちに明日はない

 

ぼくの本棚には趣味の悪い本が並んでいるコーナーがある。サピエンス全史など無害そうなものからグラデーションのように、ペニスの文化史、人の死に方、ザ・殺人術、霧の中、暗い森、オウム帝国の正体、日本の黒い事件、生ける屍の結末、人を殺してみたかった……自分で並べてみても直視し辛い、陰のようなものがこの一角には落ちている。

ぼくが何か事件などを起こしてしまえば、何処ぞの大学教授や心理プロファイラーみたいな人に、何だかんだとケチをつけられてしまう本がある。まるで物証のように突きつけられてしまいそうな、罪を認めて謝ってしまいそうな蔵書がある。

 

(なんとおぞましい!)

どうやらぼくの中に異常犯罪に対する興味があるようだった。なぜ事件が起こったのか、どういった心理で事件に至ったのかなどと言う当たり障りのない知的欲求だけではない、シンプルな理由がある気がする。人は誰もが、なにか小さな弾みでそっち側へ行ってしまう生物だと認識している部分で、ぼくは彼らに共感のようなものがあるのかもしれない。大切な人を誰かに奪われる恐怖よりも、自分が何かを奪ってしまう恐怖をまず感じるのが、ぼくなのだ。事件を知る中で覚えたこの怒りを、自身に向けられる事に恐怖するのが、ぼくだった。

 

「人の嫌がることはしない」という協定を各人が持つことで「自分の嫌なことをされない」状態が各人に起こる。それを脅かすものを人は許さない。そんな奴は殺してしまえという事も、この国では一般認識だ。

それに多くの人は、たとえ他人でも人が苦しみ悲しむ様を見るのは気持ちの良いものではない。ましてや自らの手でそんなことはしたくないものだ。

そんな奴は異常者だ。

 

それなのに人は日常的に誰かに傷つけられ、いともたやすく誰かを傷つける。人を苦しめようとし、涙を見て喜ぶ奴等が学校にも職場にも当たり前に居る。それは、いつかの誰かにとってのぼくであった自信がある。

ぼくは自分が異常ではないという自信がないし、誰もがそうだと思っている。自分と周りの人たちが被害を被らないかぎり、誰かを断罪する自信がない。それよりも断罪される恐怖の方がリアリティがある。

 

 

友達がぼくの本棚を見て、お前は趣味が悪いと言った。ボニーとクライドが好きなお前が、どうしてぼくの本棚を非難できるのかと思った。いやしかし、誰も殺していない黒子のバスケ事件の犯人よりも、殺人強盗犯のボニーとクライドの方が趣味としては良いのかもしれない。前者は底抜けに気味が悪いし、後者は反抗のアイコンだ。映画にもなったし、曲にもなったし、Tシャツにもなった。さすがに黒子のバスケ事件のTシャツなんて、ぼくだって着ない。そういうことだ。

うるせえ、ほっとけ。

そうやって言うほかなかった。何をどう言い繕おうが、ぼくはただの犯罪好きの悪趣味野郎ということだった。