死ぬか天才か

ハグ林のだだ漏れ思考整理簿(予定)

唯一人

※意味もなく暗いです!

 

 

 

 

 

 

まとまらないので書き殴っていく。

 

 

閉塞感が漂っている。

何にだろうか。

おれに、おれの人生に。

何かが恐ろしい気がする。

何だろう、しょぼい自分の人生が恐ろしいのだろうか。

いつまで経ってもこの世の当たり前に慣れない。生まれてきた理不尽と死んでいく理不尽に慣れない。自分も親も友達も犬も好きな人も死んでしまうことに折り合いがつかない。かと言って生き続ける気力もない。世の中の凡事を色即是空と唱えてやり過ごしてきたつもりなのに、ぼくの本質は酷く幼いままで、煩悩の塊だ。

 

死か?死なのか!

おそらく死が待ち受ける人生が恐ろしい。

大人になればそんな気持ちも薄らいでいくと思っていた。与えられた命に感謝しながら慎ましく死を待つことができる態勢が自然に整うのだと何処かで考えていた。そんなことなかった。

 

ばあちゃんが救急車で病院に運ばれた時、意識のないまま暗い、怖いと唸っていたことを覚えている。ばあちゃんはよく念仏を唱えたり仏の話をしていた。それと、自分はもう長くないような事を食卓でよく言っていた。ぼくは年寄りにありがちな、日常的に死を口にする癖みたいなものが嫌いでいつも苛ついていた。無意識に怖いと唸るばあちゃんを見て、「ああ、ばあちゃんも死ぬのが怖かったんだな」と思った。怖いから念仏を唱えて、自分の死をしきりに口にしていたんだ。

 

もう1人のばあちゃんは死ぬ間際まで自分が死んだ後のことを心配していた。娘しかいないので自分の家や系図のことを気にしていた。顔がむくんで息をするのも苦しそうで、まともに喋れなくなっても、とにかくその事をぼくに訴え続けていた。そんな話は初耳だったけど、おかんが言うにはずっとぼくに話したかったそうだ。あんまり口がうまい人じゃなかったから言いづらかったんだろうか。あんまりにも苦しそうだったので息を止めたばあちゃんを見た時は、なんだかホッとしたような気もした。葬儀場の用意や支払いの積み立ては、全て生前に自分で済ませていた。なかなかストイックなばあちゃんだ。

 

ぼくは今までありがとうとか、そういうことを言うことができなかった。死を容認することが恐ろしかったし、あらたまって口にすることが恥ずかしかった。棺桶に入ってから、やっとぼそりと言えた。逝こうとする人を前にしても自分を曲げることができなかったことが少しトラウマだ。

 

 

今日のように死が怖くなる時期がたまにある。当たり前に繰り返している息の仕方が分からなくなるように、ハッとしてゾッとするのだ。

自分の命よりも大事なものがあれば、少しは怖くなくなるだろうかなんて考える。人生はそういう旅なのかもしれない。多くの人の場合、それは子孫を残すことなんだろう。誰に言われるでもなく、ぼくたちはそうしてきた。それは生きる意味とかいう話ではなくて、しかし自分が存在している理由だ。死を恐れる者たちが自分たちの一存で次の命を生み出して世界は回っているのだろうか。自己愛の肥大化した自分には見当がつかない。

もし可能なら自分で産みたい。自分のお腹で育てないとぼくみたいなのはダメな気がする。そんなシュワちゃんの映画あったよね。あと、ばちかぶりの曲。

https://youtu.be/RGVlopWNNw4