死ぬか天才か

ハグ林のだだ漏れ思考整理簿(予定)

終わった人間

「自分は終わった人間である」という意識がいつの間にか、ぼくの中にある。 ある日突然理解するのではなく、 部屋に少しずつ充満する毒ガスに気分を悪くしながら「ああ、 やはり」と思い当たったかのように、 いつの間にか判明し、酷く腑に落ちた。

 何がどう終っているのか、上手く説明できない。ただ、 自分の人生について大よその予想がついてしまったから、そんな気がしている。

その想像よりもずっと苦労するかもしれないし、 思いもよらない幸福を見出すのかもしれない。 しかし、ぼくの人生というのはぼくの予想の範疇を出ないような気がする。 それはぼくという人間が矮小であるために人生もそれなりなのだという意識がもたらした閉塞感なのだろう。「 大人は自分の天井が見えてしまう」 と朝倉葉の親父が言っていたことを思い出す。 不幸でないことを幸せと言えないのは罪なのだろうか。

学生のころにチラっと読んだキルケゴールの「死に至る病」も要するにそういう話だった気がする。どこにも行けず、 何の変化も見込めない絶望が本当の死であると。 そういう意味でもぼくは着実と死んでいっている。世界に溢れる事象やそれについての感情について、ぼくの脳が無駄な情報として受け流している。段々と上手になっている。それが時の進みを早める。ぼくたちはあっという間にくたばる。

病の進行を止めるには、 前でも後ろでも明後日の方向でも、 とにかく移動し続けるほかない。 ぼくにとってそれは音楽だったり、馬鹿馬鹿しい戯言を書き綴ることが歩を進めるという行為であればいいなと思う。

人生が1度きりなんていう薄ら寒い事実に、勇気を貰うことが近頃ある。死ぬ気になればなんでも出来るなんて思わないけれど、やりたいと思えたことはやってみた方がいい。どうせ100年後にはみんな入れ替わっている。それまでに何かで、みんなで笑いたい。