死ぬか天才か

ハグ林のだだ漏れ思考整理簿(予定)

金木犀物語

死にたいと口にするほど、高校生の僕の日常は不幸なものではなかった。それどころか、世界を見渡したなら、僕なんかは随分と恵まれた餓鬼ではないか。しかし、それでも死にたいと1人ボヤきたいようなバチあたり気持ちがずっとあって、それは只々何かいいことはないものかと言う意味合いのもので、つまるところ退屈だなあというため息そのものだった。
神様が与えたもうた3年生の教室、窓際最後部の席に腰掛けて上述の意味合いで「死にたい」と頭で唱えた。実際に口にするのは恥知らずのようで、はばかられるのでしないのだ。いやいや、その時代の僕ときたらはばかれることばかり考えていたので頭の中で万事を済ませるのは癖になっていて、別に誰に聞いて欲しいわけでもないし、こうして無口な林という人間が出来上がっていったのかもしれない。
天気の良い秋晴れの風に乗って何か無視のできない不自然な香りが窓から流れ入ってくる。教室のすぐ横に植わっている金木犀の花の香りだ。
「まるで青春の象徴の香りのようでムカつくぜ」と頭で唱えた。この主張の強い芳香剤のような花の香りを、あの娘は好きなんだと言っていたなあと思い出したのだ。なるほど、こんな解りやすい香りを好むのだからあの娘はミーハーで通俗的でサッカー部のキャプテンなんかが好きなわけだ。
枯れろ枯れろ。さっさとその赤黄色を毒葡萄のように黒く腐らせてしまえ。でないと切なくっていけない。嗚呼、死にたい死にたい。
まさかあの娘は僕に暗号を残したのではないか。お前は「きんもっ!くせー!」ということを暗に示したのではないか。有りうる。有りうるぞ。あんなサッカー部のキャプテンにうつつを抜かす愚かな女なのだから、うまいこと僕に悪態を吐くなんて朝飯前なのだ。もしくはそういった卑怯で言い訳じみた悪口が全国の女子高生の間で流行っているということも考えられる。被害妄想ではなくて、こんなご時世では全て有りうることなのだ。
こういった訳で、金木犀の匂いなんてうっとうしくて嫌いだ。僕の恋人になるのは、きっと蓮華草の花の匂いなんかを愛する可憐な人なんだろうと思う。そんな人を愛せば、死にたいなんて言わない。死にたいなんて言わせないのだ。毎日、いちにちの終わりには黄昏時の道を歩きながら、彼女が一番星を見つけて僕に教え、明日はきっと明るい日だと言うことを死ぬまで繰り返すのだ。今と同じ季節が来て、金木犀の花の香りがトリフィド時代のように世界中を飲み込んでも、2人は抱き合って、お互いの肩やら頭やらの匂いを嗅ぎあって決して負けないのだ。
例えば大人になった、だいたい26歳あたりになった僕が、高校生の僕のこの主張を読んで、馬鹿馬鹿しくて愚かで頭がクラクラして天地がひっくり返りそうだと思ったとしても、お前の方が馬鹿で愚かで金玉顔だと言ってやりたい。僕はきっと蓮華草の彼女を見つけるぞ。世界中を旅して、砂漠の街やら雲の王国やら海底都市だって渡り歩いて、必ずそうするのだ。今お前の隣に優しく笑う彼女がいなければ、この手記を二人笑って読むことが出来なければ、僕はお前と別の世界線へ行ったということなのだ。お前は人を馬鹿にし、身の程を知って、愛を怠ったのだ。そんなお前は今日も一人寂しく死にたいと言うのだ。それどころか、死にたいと口にする退屈もなくしているのかも知れない。夢のない金を稼いで半端な歌を歌うのだろう。